Miguel Angel Herediaという踊り手

Miguel Angel Heredia.jpg3月22日アンダルーサへにてライブ鑑賞。ハイメ・エレディアを聴きに行くことが目的ではあったが、そこにミゲル・アンヘルが出演するということで、ライブへの期待を更に大きく持って会場へ向かう。グラナダからのアーティスト三人に対し、ヘレスからは唯一のミゲル・アンヘル。心の細やかな彼がどのように舞台に立つのか、期待とほんの少しの心配が入り混じって開演を待った。

その日公演を見終わって思った。ミゲル・アンヘルは現代において稀有な踊り手の一人である。
ハイメという大きな歌の中で、見事なまでにその歌の倍音を感じさせるようなマルカールをミゲル・アンヘルは静かに織りなす。歌のうねり一つ一つに彼は反応し、ハイメの豊かな歌を得て、ミゲル・アンヘルの踊りは更に深く豊かになる。残念ながら、現代において歌と共に膨らむ踊りをする若い踊り手というのは、今やあまり存在しない。私は批評家ではなく、また外国人としてフラメンコの話を公の場で話をすることに多少のためらいはあるが、ここ近年の「マルカールの存在しない踊り」に疑問を持ってきた。スペインでの踊りの公演を見るにつけ、歌は踊りを引き立てる存在のひとつのような扱いとなり、踊り手の要求する歌を歌える歌い手が重宝がられる傾向にある。これが近年のフラメンコ公演を大きく変えた。「作品」として構成されない公演は劇場から姿を消し、「フラメンコを踊る」ということだけでは評価されない時代が来た(現在のビエナル、ヘレス・フェスティバルの劇場公演は実際に「作品」以外ほぼ存在しない)。ヘレスのアンヘリータ・ゴメスは現在の劇場公演の多くについて「フラメンコへのRespeto(尊敬)が足りない。」と言い切る。そして「もう腹を立てたくないから劇場公演にはあまり行かない」と語る。

ミゲル・アンヘルのソレア・ポル・ブレリアは素晴らしいフラメンコであった。歌が豊かであればあるほどミゲル・アンヘルの踊りは更によくなる。ハイメとの共演を私はもちろん初めて見たが、今までに見たことのない更に豊かなミゲル・アンヘルを見ることが出来た。何よりも舞台上の空気を大事にし、歌い手の呼吸を全て彼の身体の中に染み渡らせ、その呼吸を彼の動きによって再現する。豊かな豊かな踊りであった。良い歌、良い空気を得てその踊りを変え、空気を膨らますことのできる踊りであった。そしてこれを実現できる踊り手は、残念ながら今は稀有な存在と言っていいだろう。

3月のスペイン滞在からの帰国直前、マドリッドにてペペ・トーレスの踊りを見ることが出来た。彼はミゲル・アンヘルとは違うタイプではあるが、豊かなマルカールを持つ踊り手である。舞台の一秒一秒が細やかで、丁寧でそしてエネルギーを持っていた。2週間という短い間にこの二人の踊りを見られたことを幸せに思う。

この日のライブ後、ミゲル・アンヘルは「全くダメだった」と言ったという。彼がそう言ったことはある意味理解できる。彼の踊りは素晴らしかった(と観客である私は思う)が、慣れないメンバーの中の難しさもあったのであろう。舞台上、それを感じる部分は確かにあった。しかしながらその本人の思いとは別に、彼の踊りは間違いなく豊かであり、「フラメンコの踊りを見た」という満足感に観客が満たされたのは言うまでもない。そして私はミゲル・アンヘルという踊り手に心からの拍手を送った。踊りと共に大きく膨らみ変化する踊り手であるミゲル・アンヘルをこれからも見続けていきたい。少なくともこのハイメとの共演をまた見に行こうと思う。先日とはまたきっと違う踊りを見られるに違いない。