トロンボという踊り手

 冬になるとミートソースを作る。玉ねぎを炒めて挽肉を炒めて、トマトを入れて、そしてスパイスを入れて煮込むと少しずつ良い香りがしてくる。するといつもセビージャのスタジオで会ったトロンボを思い出す。

 「鍋の中にプチェロ(アンダルシアの煮物)材料を入れて、ゆっくりゆっくり火にかける。そうすると少しずつ香りが立ってくるだろう?子供達はその香りにワクワクして『お母さん、美味しそうだね!ご飯まだ?』と目を輝かせるんだ。『まだよ、もう少し』と母親もにっこりとしながら、食事までの時間を一緒に愛おしむんだ。時間をかけてゆっくりと大事に作り上げるんだよ。電子レンジじゃできない、これこそがフラメンコだ。」唾を飛ばしながら、何度も何度も同じ事を言うトロンボ。ミートソースの香りが豊かになればなるほど、この日の光景を思い出す。
 
 10年以上前アンヘリータ・バルガスのクラスを受けに飛行機に乗りセビージャへ行った。しかし残念ながらクラスは開講されず途方に暮れていた。友人が「ねぇ、トロンボのクラスに来ない?すごいよ!」と誘う。ビデオでしか見たことのなかったトロンボ、何だか難しい人だという噂のトロンボ。一瞬躊躇したが、やることもないので行くことにした。
セビージャのプラサ・ペリカノにあるスタジオに行くと、薄暗い光の中にその人はいた。壁中にフラメンコアーティストの写真が貼られ、獣なのか天使なのか見分けのつかない瞳を持った主がこちらを見た。笑顔だった。そして思った。「とんでもないところに来たかも」

 そこから数日間、この「悲しみの館(と私が勝手に命名した)」へ通った。理論のクラスではコンパスの話、昔の歌い手の話と多岐に渡る。「子供が成長をするためには牛乳を飲ませなくてはいけないだろ。例え泣きながらジュースを欲しがっても、好き嫌いは関係ない。牛乳という栄養が必要なんだ。フェルナンダ・デ・ウトレーラ、アントニオ・マイレーナ、チョコラーテ達はそれなんだ。全員が必ず聴かなくてはいけないんだ!」
 
 毎日がジェットコースターのようだった。トロンボは全身を汗でびっしょりにし、身体と心全てを使って私達に彼の思いを伝える。クラスは何時に終わるか分からない。 用事のある人は自由に帰る。その帰るタイミングを私は見つけられず、いつも最後までいた。部屋に戻るとぐったりと疲れ、時に涙を流した。スペインでトロンボに習ったのはこの時だけ。しかし、この記憶は私の内臓にぐっさりと刺さりこみ、帰国後の私を随分と困らせた。
 
 そのトロンボが日本にいる。来日から時間がたってしまったが、先日見に行ってきた。そのソレアは圧倒的。紡ぎだすコンパス、歌とギターの細部にまで寄り添ったマルカールにそして「時」を逃さないレマーテ。私は時に笑い、時に息を詰めながら存分にフラメンコを浴びる。彼のこのソレアこそが「牛乳」だ。好き嫌いなんて関係ない、まずは見なくてはいけない、そう強く思った。
 「トロンボは素敵か、素晴らしいか、かっこいいか。」もしそう聞かれたら、私は言葉に困るかもしれない。彼の踊りは私には少し悲しい。もちろんトロンボは素晴らしく、コンパスの妙に心を動かされ、マルカールに最大のハレオを送る。しかし彼の持つ繊細さや孤独がいつも空気になり彼を包み、見ている私の心臓をいつもつつくのだ。ありきたりの明るい表現で彼を表すのは私にはとても難しい。しかし、もし敢えて彼を一言で言い表せと言われたらこの言葉しか見つからない。
「トロンボとは必ず見なくてはいけない人」