映画「La Chana(ラ・チャナ)」

 ずいぶん経ったが、映画「La Chana」を見てきた。これまでにチャナを見たのはイベリアで出しているVHSだけ。とにかく何でも見て何でも聴こうと意気込んでいたあの頃、チャナが誰だか分からず購入したが、正直に言うと彼女の踊り自体は当時の私の好みではなく、1回か2回見ただけで棚の奥に仕舞われた。今、そのVHSがどこに仕舞われているのか、正直分からない。

 今年の5月後半、ピカフィルムの飯田さんにあるタブラオで偶然会った。「島村さん、今度のはすごいの!感動するわ!」と紹介されたこの映画。「チャナってあのチャナ?」というのが正直な印象。是非とも見たいというよりは「なぜチャナ?」という思いが先に立った。映画が公開されるとあっという間に評判が耳に入る。感動した、泣いた、見るべきだ、彼女のフラメンコは今なお新しいなどなど。見るつもりであったものの、元来あまのじゃくな私は、周りがあまり騒ぐと静観するふりをするため(本当はすごく気になっている!)、公開からずいぶん経ってようやく渋谷の坂を上った。

 映画が始まると、金髪の美人が髪を振り乱し、一種のトランス状態でとんでもない速さのサパティアードを打ち鳴らしている。このすごい足はカリメ・アマジャか?でも顔を見ると明らかに違う。いったい誰なのか考えているうちに場面は一転。主人公であるチャナの柔らかな日常が映し出される。広い静かな家、穏やかなご主人、愛犬、沢山の友人、そして彼女の娘。
 その後はデビューしてからの華やかな舞台生活の映像が流れる。そこに映し出される彼女の類まれなる美貌と、その風貌とのアンバランスささえ感じる強靭な肉体、精神。テレビのない時代、ラジオでフラメンコを聴きそのコンパスを全身の血と肉とした彼女の踊りは文字通り「唯一無二」であったに違いない。内なる「何か」から溢れ出る彼女の感情は、彼女の踊りの指揮者となり、表現者となった。

 チャナはその人気の絶頂で表舞台から姿を消す。それは配偶者による虐待だったという。彼女の時代のヒターノ(ロマ)女性に恐らく人権などというものなく、あくまで私の想像に過ぎないが、彼女の配偶者はその中でも「よりヒターノらしい」男性だったのかもしれない。映画の中ではこの虐待についての描写はほとんどなく、深い言及もしていない。しかし涙を拭きながら語るチャナを見れば、その生活がどのようなものであったのかは明らかだ。

 映画の最後には足を痛めたチャナが椅子に座ったまま舞台で踊るシーンが収められている。緊張で震えるチャナが手を引かれ、舞台に上がると、もうそこは彼女の空間と変わる。ブラソ、表情、座っているとは思えない細かくて饒舌な足音!映画のスクリーンに向かって「オレ!」と声を出すのを何回ためらったことか。「魂」の踊りとはこのことだ。気が付いたらすっかり泣いていた。

 映画の中で何度も「魂」という言葉が出てくる。若い頃のチャナの踊りは感情の踊りだった。身体の、心の奥底から湧き上がる嘘のない感情。その感情は時に重く、時に過剰でもあった。若い頃の私はこの感情を受け止めきれなかったのだろうか。しかしながら、今のチャナの踊りは「魂の踊り」となっていた。崇高であり、けれどもどこまでも人間臭い。冒頭の写真はあえて日本のチラシではないものにしてみたが、この2つの顔が彼女の人生の道のりを十分に語ってくれると思う。

 渋谷の坂を下りながら「チャナがもし男の人だったら、とんでもないスーパースターになっていたよね」と夫に呟いたところ、「男女関係ないでしょ。彼女の夫が違う人だったらスーパースターだよ。」と。はい、そうでした。でもこの映画の主題は「女性の人生」と考えてしまうのは、やはり私が女性だからだろうか。

※冒頭の金髪美人はチャナ本人でした。人気絶頂の頃、イタリアの仕事で8日間毎日8時間休まずに踊らされるという、過酷な仕事の録画だそうで。トランス状態になるのも無理はありません。